令和3年11月12日、地域探訪として長浜市余呉町菅並地区・洞壽院と上丹生地区・茶わん祭の館を訪問 しました。絶好の天気に恵まれ皆さん一時を楽しんでいただきました。 参加者 20名 |
永平寺を感じさせる山門でした
洞壽院 (とうじゅいん)とは 1406年(応永13年)、如仲禅師が開山した禅寺である。如仲禅師は曹洞宗両祖(道元禅師)の教えを身を持って実践、如仲禅師の 法孫高弟たちは、全国に三千余の寺を建て最初の道場がこの洞壽院といわれている。 湖北の寺では最北端に位置し、参道を上がると辺りは厳粛な空気に包まれる。老杉古木に重なる山門をくぐると、正面には大屋根の 本堂がずっしりと構えている。実に均整のとれた大きく優美な造りはまさに禅寺にふさわしく、「湖北の大屋根」ともいわれている。 本堂内には本尊の釈迦三尊をはじめ、大日如来、開山の如仲禅師などが祀られている。 屋根には天皇家・菊紋章と徳川家・葵紋章が輝きひときわ威厳を放っている。 昔は「越前永平寺・能登總持寺へのとおり道・禅道場」として栄えた。本格座禅堂を有し、一般の方の参禅体験(座禅・社協など)禅生活の 体験が可能である。 (洞壽院の資料から引用) |
参道前の看板 洞壽院の参道 洞壽院の説明 本堂にて説明を受ける 少し紅葉も早いかな ? |
本堂 (菊の紋章と葵の紋章が立派) 奥長支部長から挨拶 富永副支部長から説明 住職から詳しく説明を受ける 素晴らしい法話でした 説明後、短時間ですが禅堂にて座禅を体験 |
全員で本堂前にて
永宝山と思われる曳山
丹生 茶わん祭の由来 長浜市余呉町・丹生神社の大祭「茶わん祭」は、おおむね五年に一度行われます。その昔、余呉町上丹生では良質の陶土が 採掘できたそうで、名工・末遠春長は、優れた陶土と技を自分に授けてくださった神に感謝し、毎年欠かさずに新しい陶器を神社に 奉納したといいます。これが「茶わん祭」の由縁です。 丹生神社の摂社・八幡神社に渡御する三基の曳山(永宝山、寿宝山、丹宝山)には、数千を超える陶器をつなぎ合わせた山車飾りが 取り付けられ、その高さは約十メートルにもおよびます。山車づくりは秘伝とされ、今も選ばれた工匠のみに口伝されています。 「茶わん祭}の伝統美はこうして親から子、子から孫へと継承されてきたのです。稚児の舞、花笠踊り、神輿の渡御など、古式を 守って執行されるこの祭りは、滋賀県の無形民俗文化財に指定されています。 (パンフレットより引用) しかし、新型コロナの関係や過疎化の原因で開催が危ぶまれているそうです。 |
茶わんの祭の館、玄関 会議室でビデオと説明を受ける 曳山の前で説明を受ける 地元の方から詳しい説明を受ける 時代の流れとは言え、継承が難しい |
手作りの装飾品が展示されている 過去の祭りの様子をパネル展示 説明を聞く会員達 全員で茶わん祭のビデオを鑑賞 |
午前中の地域探訪でしたが、普段訪れる事と少ない余呉町・菅並、上丹生地区へうかがいました。 紅葉には少し早い感じでしたが、好天に恵まれ楽しいひと時でした。 皆さんも一度訪れてはと思います。これから豪雪地帯でもありますし、早めにお出かけください。 |
2020年10月15日、地域探訪として長浜市・国友鉄砲ミュージアムと国友景観地域の探訪をした
当日は国友郵便局横の駐車場に30人以上の参加者があり、奥長支部長と富永副支部長から
挨拶を受けた後、国友鉄砲ミュージアム会館を訪れ、吉田館長から説明と展示品をみた
国友の歴史 天文12年(1543年)8月25日、種子島の門倉岬に一艘の中国船が嵐のため漂着した。そこに乗っていたポルトガル人から、 初めて日本に2挺の鉄砲(火縄銃)が伝えられた。以降、国友・堺・根来など各地で鉄砲が作られた。鉄砲と共に伝わった 新しい文化、特にネジの開発は、日本の歴史を大きく変えた。 種子島に伝来した鉄砲は、足利将軍の命により早くも伝来の翌年に当る天文13年(1544年)から国友で作り始められた。 ネジを切る方法など創意工夫を重ね、大量の鉄砲製造が可能になった。最盛期には、国友には70軒の鍛冶屋と500人を 越す職人がいた。 戦国時代には鉄砲造りで栄えたが、江戸時代に入ると需要は減り衰退するが、装飾の鉄砲や後に曳山の飾りなどで 技術は伝承され、国友一貫斎(1778~1840)が反射望遠鏡など作り、日本初の天体観測をした。(ミュージアム資料を引用) |
奥長支部長の挨拶から始まる 国友鉄砲ミュージアム全景 展示品をみる会員 展示品の数々 |
富永副支部長から国友ミュージアム説明 二階の展示品の説明を受ける 館長より説明を受ける |
実物の鉄砲と製造方法説明 国友一貫斎の生家の玄関前 道路横のグレーチングにも鉄砲のマーク |
国友城の跡地 公民館南側の整備された景観(鯉が泳ぐ) |